平成27年(ワ)第1061号 損害賠償請求事件
原 告
被 告 今井光郎、フジ住宅株式会社
被告今井第9準備書面
令和2年1月10日
大阪地方裁判所堺支部第1民事部合議C係 御中
被告今井光郎訴訟代理人
弁護士 中 村 正 彦
人証調べの成果も踏まえ、また、原告第19準備書面の主張に対する反論も含めて、被告今井は、次のとおり総括の主張をなす。原告の請求の構造は基本的に原告第13準備書面の別表にまとめられたものが維持されているので、それに対応して主張を記載する。
1 ヘイトスピーチないしそれに類する資料配布行為との主張(第1類型)に対して
(1)客観的に、ヘイトスピーチでもなく、人種的民族的差別を助長する文書でもない
ア 人証調べで触れられた表現について
原告は、被告らの配布した多数の文書が、ヘイトスピーチであることが明らかな資料ないし人種的民族的差別を助長する資料であると主張するが(第1類型)、全く失当である。
具体的に人証調べで触れられたものについていうと、「日狂組の教室」(甲22・213頁以下)は、原告本人によれば「あの戦争を正当化、美化している、とてもひどい」資料であり(原告本人尋問調書7頁。以下、同調書の記載について、「原告○頁」と記載する。甲110・10頁参照)、原告主張では「歴史修正主義」により人種的民族的差別を助長するものだとされる(原告第11準備書面別表4-2番号10)。しかしながら、その実際の内容は、南京大虐殺や従軍慰安婦に関する事実に反する言説に客観的な事実をもって反駁し、日教組などが進めてきた偏向歴史教育を批判しようとする公益的な資料であり(乙22・14頁)、「戦争を美化する」などと乱暴に括られたり、配布が違法とされるような「ひどい」ものとは到底いえない。
「彼らは、歴史を捏造してでも相手を謝罪させることによって、常に立場の優劣をはっきりさせねば気が済まない民族なのである。朝鮮民族の特性として、自分らが強い立場になると弱い者を徹底的に攻撃する習性がある」(甲24・98頁)等の文についても、原告はヘイトスピーチであると主張し(原告第11準備書面別表2番号5)、原告本人も「誰がこんなことを書いているんだと思いました」等の感情的反発を述べる(原告8頁)。しかしこれは、「従軍慰安婦強制連行の嘘 従軍慰安婦とは高給取りの戦時売春婦です」という論考において、筆者が、従軍慰安婦に「強制連行」はなかったにもかかわらずそれを認めず、日韓基本条約締結とそれによる賠償金支払いにより解決した問題についてさらに賠償金を要求する韓国の姿勢はおかしいという認識のもと、そのような姿勢に表れている民族としての特性の良くない形の発露について、自身なりの意見論評を述べている文脈でのものである(被告今井第6準備書面6頁同旨)。
原告本人は、従軍慰安婦が強制連行された性奴隷という認識を有し、その認識と異なる文書の社内配布はやめてほしいという考えで(原告56頁)、「売春婦とか、高給取りとか」(原告9頁)書かれたこの資料の配布をけしからんと述べているに過ぎない。一方的な見解に立った主張と言わざるをえないし、史実(具体的に、従軍慰安婦が商業的な契約に基づいていた実態や、その給与と兵士の月給との比較などが史料に基づいて述べられている)とそれに関連する言論がヘイトスピーチと断じられてよいはずがない(今井45頁)。
原告自身も、本人尋問において「軍による強制連行がなかったという内容の意見は、民族差別的文章なのか」との問いに、肯定できず、沈黙せざるをえなかった(原告32、33頁)。
「中国や韓国は『騙される方が悪い』『嘘も100回言えば本当になる』と信じている国民」等の記載(甲23・185頁)も原告主張では「特定の国の民族性を直接非難するもの」で人種的民族的差別を助長するものだとされ(原告第11準備書面別表4-1番号95)、原告本人も憤りを表明するが(原告9頁)、これも、韓国人が、従軍慰安婦が強制連行による性奴隷であったという真実に反する事実を国際社会に喧伝していることに対する批判の文脈での中山成彬議員の発言であって、単に中韓の民族性を貶めているものではない(今井47頁)。
「野生動物」(甲24・89頁。原告第11準備書面別表2番号4)という記述は、配布DVDの「櫻井よしこ氏 従軍慰安婦の嘘を暴く」というYouTube映像の紹介目的の資料配布であり、そもそも被告今井は当該部分を意識もせずに配布していたし(被告今井本人尋問調書7頁。以下、同調書の記載について、「今井○頁」と記載する)、内容に鑑みても、ヘイトスピーチとは到底いえない(被告今井第4準備書面7頁、同第6準備書面5頁同旨)。
「在日は死ねよ」(甲23・83頁。原告第11準備書面別表2番号1、同別表4-1番号91)という記述も同様で、被告今井や被告会社社員の書いたものではなく、被告今井の意図とは別に、配布資料にたまたま混入したというのが実態であり、それは配布を受けた者が文書全体を見ると容易に理解できることである(乙22・15頁。被告今井第4準備書面4頁、同第6準備書面2頁同旨)。
在日特権に関する資料(甲40の8・756頁、87、88頁)やそれに関する感想(甲6)は、部門長会議資料に含まれていたもので原告は配布対象ではないことに争いはないし、在日特権に関する資料配布はそれらが唯一であって、被告今井に特段強い問題意識があって配布したものでもなく(今井23、47頁。乙22・19頁)、また、本件紛争の実質的争点でもない。そもそも、この点を原告は本件の不法行為に基づく損害賠償請求の根拠事実として主張していない(原告第11準備書面別表4-3に含まれていない)。
「韓国は永遠に捏造する国家であり、日本国は全ての支援を切り、断交すればよいと思います。自国の歴史を整形するような国は、自滅するのみです。」(甲22・1004頁。原告第11準備書面別表4-1番号25)との配布資料の記載も原告は問題視するが(今井30頁)、「韓国の大統領がアメリカ議会で日本を『正しい歴史認識がなければ明日はない』と批判していた」ことに対する意見であり、ヘイト言論などではなく韓国の対日外交姿勢に関する政治的な意見論評であることは明らかであって、意見内容が厳しいものであったとしても、当然に表現の自由により保護されるべきものである。「国交断絶」が政治的意見として良いものかどうかは、表現の自由市場での淘汰に委ねられるべき事柄である。また、被告今井も、韓国という国家の対日姿勢に関する批判意見の一つを紹介する趣旨で配布しただけであり、会社として日本国が韓国と国交断絶をすべきと考えているわけでもない(今井30頁)。
『おじいちゃん、戦争のことを教えて』(甲24・107頁以下。原告第11準備書面別表4-2番号106~111)については、原告は、「戦争を正当化する感じ」はあるものの、民族差別的な文章には当たらないと述べており(原告33、34頁)、違法とされる要素がどこにあるのかもよく分からない。なお、被告らとしては、「戦争を正当化する」書物であるというまとめも、乱暴すぎる決めつけであるということは付言しておきたい。
以上のように、最も悪質なものとして尋問で取り上げられた例を拾っても、ヘイトスピーチや、意図的な差別表現とは言い難いものばかりであり、むしろ本来的に表現の自由によって保護されるべき政治的意見やそれを支える学究成果が、配布資料の内実である。
イ 被告今井の本人尋問での供述について
原告は、被告今井が「在日は死ねよ」という言葉だけでなく、「韓国人は嘘つき」、「野生動物と同じ」といった表現をヘイトスピーチであると述べた(今井17~19頁)ことをもってヘイトスピーチ該当性が明らかになったと主張すると思われるが、ヘイトスピーチないし違法言論に該当するかという点は、法的評価の問題であって、仮に被告今井が尋問に際してそれを認めたとしても、そのことから直ちに結論が決まるというものではない。
ヘイトスピーチの定義が確立、共有されていない中で、一般論として「韓国人は嘘つき」、「野生動物と同じ」等の断片的な表現がヘイトスピーチに該当するか聞かれた被告今井は、「その言葉自体は、きつい批判の表現ではある」というくらいの意図で肯定したにすぎず、被告今井の供述の全体的趣旨からは、本件での被告らの具体的な配布資料の記載がヘイト表現であったことは否定している。
ウ タイトルを消して配布すべき/民族性は否定してはならない等の指摘に対して
被告今井に対する反対尋問においては、原告代理人から、甲第127号証のような資料(韓国で近時「反日種族主義」という本がベストセラーになっていることを紹介する雑誌WiLL掲載の論考)を配布するにあたっては、「韓国が消えても誰も困らない」、「韓国人は嘘つき」といったタイトルを消して中身を紹介して配るべきであるという考え方に沿った尋問がなされた(今井18~22頁)。
このような資料は内容的には問題がないが、攻撃的なタイトルは違法性を帯びるというのが原告代理人の見解のようであるが、内容自体は許容されるという部分は、原告の従来主張(「反日言論」に対抗する主張は「歴史修正主義」であり人種的民族的差別を助長するもので問題)から大きく後退している。
また、全体として表現の内容は許容されるものであってもそこに含まれる攻撃性の強い言葉があれば、その一部分はヘイトスピーチに該当するというような解釈は、原告がこれまで主張してきたヘイトスピーチの定義(原告第11準備書面10頁以下等)からも逸脱している。
それらはおいても、内容は許容されるものをタイトルだけは削除して配布すべしという考え方自体、表面的な「言葉狩り」であり言論の過剰な抑圧であるといわざるをえない。タイトルや見出しはトータルな一つの表現の極めて重要な要素であり、それをカットするというのは当該表現の本質を毀損するものであり、表現者に対する著しい非礼でもある。実際的にも、甲第127号証のような資料を配布する際に、タイトル部分を黒塗りすると異様な体裁になってしまう。さらに、タイトルがいけないというのであれば、それと同趣旨の本文の表現を黒塗りせねばならないが、それを実行すると、本文中にも黒塗りが多々ある資料となる。しかし、そうまでせねば、適法に配布できないような禁断の内容なのであろうか。当該論考にしても、WiLLの特集にしても、近時の韓国内の情勢を紹介し、日韓の摩擦に関して日本のスタンスはこうあるべきだと主張する公益目的かつ公益性を十分に有する内容の資料なのである。
同様の文脈で、韓国批判はよいとしても民族性を否定する言葉は配布するべきでないとの趣旨の原告代理人からの被告今井に対する質問もあったが(今井31頁)、具体的内容はよいが、民族性に否定的に論及してはいけないというのも、表現の自由の解釈として誤っている。国家や国民性と密接に関わるテーマの場合、その国家や国民性を論評するにあたって、当該国家を構成する民族の特性に触れざるをえないことも多いからである。そういったことは何ら差別ではない。被告フジ住宅準備書面12でも述べられたように、原告は、韓国という国家や韓国人の国民性についての批判的言論を、あらゆる前提抜きで単に民族性を貶める言説と混同しているのである。
そういった問題の参考になる、意見・論評による名誉毀損の成否の議論においても、真実である事実を前提とした意見・論評については、「人身攻撃に及ぶなど意見ないし論評としての域を逸脱したもの」でなければ適法とされる(ロス疑惑訴訟『夕刊フジ』事件に関する最高裁平成9年9月9日第3小法廷判決)。その理由は「意見ないし論評については、その内容の正当性や合理性を特に問うことなく、人身攻撃に及ぶなど意見ないし論評としての域を逸脱したものでない限り、名誉毀損の不法行為が成立しないものとされているのは、意見ないし論評を表明する自由が民主主義社会に不可欠な表現の自由の根幹を構成するものであることを考慮し、これを手厚く保障する趣旨によるものである」(脱ゴーマニズム宣言事件に関する平成16年7月15日最高裁判所第一小法廷判決。下線部は被告今井代理人)(被告今井第4準備書面2頁以下同旨)。
エ 問題ある文書が半年間で約400個も存在するとの主張(原告第19準備書面)に対して
原告は、2013年の2月から8月と10月に配布されただけで、385個のヘイトスピーチないし人種的民族的差別を助長する記載のある問題文書が存在したと主張するが(原告第19準備書面3頁)、「問題がある」というのは原告が一方的に決めつけて数えあげた結果に過ぎない。原告が指摘する記述は、国家間の歴史的政治的課題や、現代韓国の実情やエピソードを題材とした政治的意見論評であり、差別言論ではない。言葉狩りをするのではなく、一つ一つの記述の文脈と真意が丁寧に吟味されねばならない。
(2)被告今井の資料配布の意図、目的
ア 被告今井の意図、目的に差別意識はないこと
被告今井の本人尋問においていっそうに明らかになったことは、被告今井の思いの純粋性や、資料配布の意図、目的の公益性である。
被告今井は、中国(人)、韓国(人)を差別する意識のもとで資料配布をしていたのでは全くなく(今井10頁)、根本は、社員に人生の成功者になってほしい、家族ともども幸せになってもらいたいという思いから、自己啓発分野(丙12、13等)、教育や子育ての分野(丙14の1等)、日本の偉人伝などの道徳、日本文明や文化といった分野(甲39参照)等の広いテーマの資料を配布してきた(今井3~5頁。乙22・5頁)。日本に関する資料の配布が多いのは、日本にはこういう素晴らしい人たちがいたとか、日本の道徳や文化の素晴らしさを、社員にも知ってもらい、日本人としての誇りや自信を持って生きてもらいたい、それが、社員が成功したり幸せになるために重要であるし、同時に被告フジ住宅の国や社会への貢献でもあるという認識からである。
その延長上で、自虐史観のはびこりへの憂慮から、それを克服する参考となる書籍や資料も被告今井は配布してきたのであり、目的は全く同じである(被告今井第2準備書面1頁以下、同第7準備書面2頁以下等参照)。近年、韓国批判の内容が増えたのは、国際社会の情勢によるものであり、具体的には、近年アメリカでは、韓国系の市民団体が議員やマスコミに働きかけて、日本軍は14歳から20歳までの少女を強制連行したとか、その慰安婦を天皇に献上したとかいった真実に反する史実を宣伝している等々の状況がある。そのためそういった内容がアメリカの教科書に書かれ広く信じられていて、現地の日本人子女が虐められたりしている。被告今井はそれに大変憤慨し、真実の歴史をみんな知ってほしい、せめて、社員や関係者にだけでも拡散したいという思いから、資料配布をしているのである(今井5、6、9、10頁等。乙22・8~12頁)。
また、被告今井は、特定の政治的問題に表れた韓国政府の姿勢や韓国人の国民性の良くないと思われる部分については批判はするが、個々の(在日)韓国人を非難したり侮蔑したりは一切していない(今井31頁)。
被告今井が民族差別主義者ではないことは、(元)在日韓国人である 取締役や 取締役を、その出自などは全く考慮せず、採用し、経営陣の一人として登用している事実にも直截に表れている(今井13頁、乙22・23頁)。
イ 業務との間接的な関連性
原告からは、業務と関連性のない内容の資料を社内配布するのは問題であるとの主張も繰り返されているが、「自虐史観の克服」という被告今井の思いや信念と、社員の成長、会社の業績向上は、合理的につながっているというのが被告今井の認識である。具体的に要約すると、次のようなものである(今井10~12頁)。
「社員のため、社員の家族のため、顧客・取引先のため、株主のため、地域社会のため、ひいては国家のために当社を経営する」というのが被告フジ住宅の理念である。同社は、顧客満足度日本一を目指しているが、社員が不幸で価値観が低いと、お客様の幸せを考えられない。社員が自信や誇りを持ち、家族と一緒に幸せになり、親兄弟や親友に家を買ってもらうような気持ちで顧客サービスができれば、顧客も満足し幸せになる。読んだ社員が見識と器量を高め、日本の良さをいっそう知ってこの国を好きになり、それにより自信や誇りを持ち、幸せになることにつながると考えて、資料を配っている。そういう意味で、資料配布は、結果として(間接的ではあるが)会社の業績にもつながる。
被告今井の考えるそのような因果関係を図式化すると、「資料配布 → 読んだ社員の見識と器量(価値観)の向上、日本人としての自信や誇りの獲得 → 社員やその家族の幸せ → 顧客サービスの充実 → 顧客の幸せ、満足 → 会社の業績向上」ということになる。
上記の意味で、「業務と全く関連性のない内容の資料が社内配布されている」という原告の指摘は当たらない。もちろん、「業務と関連性があるのかどうか」という判断は、立場や考え方によって違いが生じるものであろうが、社風の確立の仕方、社員教育のあり方、業績向上に向けた理念と実践方法などが直接反映される社内資料の配布判断については、民間企業の私的自治の中で、経営者の広い裁量が尊重されてしかるべきであって、簡単に違法評価されるべきではない(被告今井第5準備書面1頁以下、同第6準備書面15頁以下、19頁以下、同第7準備書面6頁以下、9頁以下等参照)。
ウ 今井の有する思想そのものに対する非難(原告第19準備書面)に対して
原告第19準備書面で書きぶりが最も激烈なのは、被告今井の意図する「自虐史観の払拭」というものに対する思想的な面からの非難であった。
原告は、「世界の歴史学の認識」だとか「日本及び世界の歴史学者が認める歴史的事実」として、戦前の日本に対する典型的な東京裁判史観にそのまま則った批判をなしているが(原告第19準備書面8頁以下)、「世界の歴史学」とか「日本及び世界の歴史学者」とは一体何を指しているのであろうか。世界と日本のスタンダードとなっているそのような史観や歴史的事実が、本当にあるとは被告らには思えない。
大東亜戦争の評価に関して言うと、戦勝国が国際法を無視して敗戦国日本の戦争犯罪を一方的に裁いた東京裁判においても、判事の中で唯一国際法の専門家だったインドのパール判事が、開戦に至るまでの経緯を仔細に検討し、「ハルノートのようなものつきつけられたら、モナコやルクセンブルクでも戈をとってアメリカに立ち向かうだろう」と述べて、A級戦犯の被告人全員に対する無罪判決を出し、後世においても評価されている。そのパール判事も歴史修正主義者なのであろうか。
また、原告は、大日本帝国と戦後の日本国は別であるという前提で、今井の思想を弾劾するが、被告今井としては、戦前の日本と戦後の日本の同一性も否定するような議論には全く同意できない。江戸時代以前から、明治期、大正期、戦前、戦中も含めて、我が国の父祖が必死に築いてきたものの積み重ねの上に今の日本の繁栄と平和があると謙虚に受け止め、感謝すべきというのが被告今井の考えである。
エ 顕わになった本件訴訟の本質、原告の目的(原告第19準備書面関係)
原告側と異なり、被告らは思想そのものの当否を議論したいわけではない。思想や信念の違いが埋まらないのは、やむをえないことである。
被告らとして指摘したいのは、原告第19準備書面の主張により、本件訴訟の本質や原告の目的が、「特定の思想に対する抑圧」であることが顕わになったという点である。
原告が述べるところは、「被告今井は『大日本帝国』の思想を信奉する者」で、「被告今井が信奉する思想は非常に危険なもの」であり(原告第19準備書面10、12頁等)、そういった危険思想に基づく資料を自ら経営する職場内で多数配布することは職場環境を悪化させるもので違法だというものである。
その主張の本質は、「今井の思想が危険だから広めるな」というものであり、職場環境云々は、実は従たる要素に過ぎない。
もし仮に、今井が配布していた資料が、左派とか革新の思想傾向のものであったならば、原告は決して違法だとは主張しないであろう。原告の言う「正しい」歴史認識というものに則った資料は、職場環境を悪化させないからである。
しかし、それは露骨なダブルスタンダードであり、フェアな法律論とは言えない。特定の思想表現に対する、訴訟を利用した抑圧である。
政治的な意見や言論に対し、危険思想などとレッテルを貼って弾圧するようなことは決して許さないというのが、現行憲法の表現の自由のはずである。
オ 大阪弁護士会の勧告について
原告のなした人権救済申立に対して今般大阪弁護士会がなした勧告(甲125)の内容には、被告らは承服できない。人権侵害があったかどうかは、この裁判で判断されることである。
ただ、弁護士会の今回の勧告書においても、資料配布の目的や、資料受領の強制の有無について「確かに、被申立人による上記資料配布は、申立人を被申立人の職場から排除することや申立人の人格権を侵害することを直接の目的とするものではなく、また、配布された文書を申立人が受領することが強制されていた事実は認められない。」(甲125・3頁)と事実認定がされている点は正当かつ重要である。
(3)職場環境配慮義務違反とされる点に対して
原告は、ヘイトスピーチないしそれに類する差別助長の資料の配布行為に関する被告フジ住宅の違法性ないし責任根拠として、職場環境配慮義務違反を主張しているが、被告らとしては、ヘイトスピーチないしそれに類する差別助長の資料の配布行為とされるものは、ヘイト性も差別助長性も否定される結果、せいぜい第2類型の「政治的見解等の配布行為」の一部に位置づけられることになると考えている。
その「政治的見解等の配布行為」においても、違法性ないし責任根拠として職場環境配慮義務違反が主張されているので、そちらの項(後述2)で、補充の反論をする。
(4)原告の被害の実情
ア 主観的な被害感情のみ
原告の陳述書(甲32、110)提出を経て、原告本人尋問を経ていっそう明らかになったのは、原告が受けた被害とされるものが、結局は、自身の主義主張に相容れない表現に接して主観的に不快であったということに尽きるという点である。
原告が象徴的な例として挙げた「日狂組の教室」という漫画や、従軍慰安婦に関連する論考等に接したときに、原告は大きな苦痛を覚えた旨を供述したが(原告6~11頁等)、その内実は、歴史認識や思想性の違いからくる不快感や感情的反発に過ぎない。また、原告の受け止めに関しても、「ついには『戦争してくださってありがとう』という感想文が経営理念感想文に選ばれるに至りました(甲19の99頁等他多数)。」などと述べられているが(甲110・16頁)、甲第19号証の99頁の感想文を見ても、先の戦争の文脈とは別に「国作りをしてくれた先人達に感謝して」と書かれているのみであり、原告による要約は全く理解し難い。原告は被告らの資料配布について、「韓国人はうそつきとか、日本人は正しくて美しいと思えないのは反日だ、異国だ、売国奴みたいなことを広めだして」と一言でまとめるが(原告20頁。原告本人尋問調書の原文ママ。なおこの部分の「異国」という調書記載は「売国」が正しいと思われる)、それもあまりに一方的な総括であり、被告らからすると原告の曲解以外の何物でもない。被告らとしては、同様の曲解が原告には多いのではないか、そして特定の表現に対する曲解に基づく不快感まで法的保護の対象にせよというのは不当なのではないかとの強い疑問を拭えない。
原告は、自身が小中学校時代に受けた平和学習(甲110・3頁)のようなものは、中身によっては会社内で行われることも許容されうると考えるようである。少なくとも全否定はしていない(原告35頁)。しかし、それは、教育や配布資料の内容が、自分が肯定できるものは許容するし、自分が認め難いものは排除するという一方的なダブルスタンダードであり、職場環境という一見ニュートラルな立論には恣意が多分に含まれている。
何より重要なのは、具体的に原告個人が社内で差別的言動に曝されたというエピソードがないことである。そのことは、原告も明確に自認している(原告38、39頁)。
「社内で差別を受けるという被害」については、資料が配られている事実以外では、原告が「そんな韓国人はうそつきとか、そういったものが増えていく状況は本当に怖かったし、このまま広がっていったらどうしようかな、私どうしたらいいだろうという不安と、本当にみんな、そんなことを思い出したらどうしようという怖さがありました」(原告14頁)というように内面に生じた漠たる心配や思いを語るだけである。原告の陳述書(甲110)を見ても、「その攻撃が『私に向けられているのではないか?』と感じても」(17頁)とか、「従業員の中にも、実は私のような存在を批判的な目で見る人もいるのではないかと思うようになり」(18頁)、「上司の影響を受けて韓国人等に対して憎悪感情を持つ人が増えていくのではないかという不安の中で、同僚を信じて自由に話すことができない」(22頁)などと、自身の内面の被害的受け止めや不安が綴られているのみで、客観的な被害事象は何も起きていない。
証人菊池も、被告フジ住宅内で、中国人、韓国人を差別するような言動が行われているところは見たことがないと証言している(菊池証人尋問調書7頁。以下、同調書の記載について、「菊池○頁」と記載する)。
実際のところ、韓国批判の資料が配布されてそれを閲読したからといって、在日韓国人の同僚に対する憎悪感情を生じさせるような浅はかな思考をする社員は被告フジ住宅にはいないし、一般的にも、対韓関係の悪化やそれに伴う韓国(人)批判に影響を受けて、身近な在日韓国人に敵意を抱くような人間は、極めて例外的であろう。
従軍慰安婦問題に関する韓国(人)の姿勢と、自分の隣にいる在日韓国人の人間性を結びつけて考えたりは普通しないし、在日韓国人も世代を経るほどに民族性は薄まり、3世、4世といった代になると本国の韓国人との感覚や考え方は非常に異なるものになっているのが実情であることは、広く知られている(あるいは容易に想像できる)からである。
原告は、在日特権に関する資料を配布された際に同僚に「あなたも税金払ってないのと聞かれました」(原告12頁)と供述するが、具体的にそのエピソードの説明を求められても、極めて曖昧な説明しかできなかったし(原告52~54頁)、そもそも身近な同僚にかように不躾な質問を「素直に聞く」(原告53頁)などという社員がいるとも考えにくく、何よりかかる重要なエピソードが陳述書(甲32、110)にも一切書かれていないのも非常に不審であること等も考え合わせると、原告供述は事実とは到底認め難い。
原告が、著しい苦痛を受け、部門長会議資料の配布不要を申し出てそれが尊重されたにもかかわらず、自ら同僚から部門長会議資料をこまめに収集していた(原告21、22、40、54頁等)。原告は、「人によっては距離をとるために、誰がどんなことを書いているか知っておく目的で」入手していたと述べるが(原告22頁)、陳述書ではそれと異なり、「いつかのために、資料を残そうという思いだけ」だったと書かれている(甲110・11頁)。そのことからしても、実際は、労働基準監督署への持込や訴訟を意識しての収集、保存の行動だったと思われる。それ自体を被告らは非難するつもりはないが、部門長会議資料については「受け取りたくも読みたくなかった資料に、環境的に逃れられず、嫌々ながら曝された」というような被害の実情ではなかったことには、留意されるべきである。
原告は、自身がパートのサブリーダーの任を解かれたことについて、その態度が反抗的に映ったためではないかとの旨も述べるが(原告44~46頁、甲110・19頁)、差別を受けた結果という主張ではない。また、実際は、原告が部門長会議資料を受け取らなかったからではなく、原告の仕事ぶりが立場にふさわしいものではなかったからである(植木証人尋問調書6頁。以下、同調書の記載について、「植木○頁」と記載する)。
イ 原告の主張する被侵害利益への疑念
被告フジ住宅の職場環境配慮義務違反という形で原告が訴えている被害の実体は、結局のところ、感情的反感や政治思想的反発である(原告第6準備書面13頁以下。今井40頁でも、原告代理人は「世界観とか、自分の思想にかわるような内容とか、そういう資料の配布はやめてくれというふうに言うのは、正当な権利だというふうに思いませんか。」と問うている)。
かかる被害の内実は、原告の主張する「差別的な言動にさらされずに就労する権利、人格的自律権、職場において自由な人間関係を形成する権利」という被侵害利益とは異なるものである。つまり、原告に対しては、「差別的な言動にさらされずに就労する権利、人格的自律権、職場において自由な人間関係を形成する権利」の侵害はない。
1つめの「差別的な言動にさらされずに就労する権利」というものは「権利」と呼ぶべきかはさておいても、そのような法的保護に値する切実な利益が憲法13条の幸福追求権を根拠として認められうるであろうが、既述のとおり、被告らが社内配布した資料はヘイトスピーチでも差別助長文書でもなく、法的に許容される政治的意見論評ばかりであり、かつ、原告個人に向けた言論でもなく、原告が就労の場面において「差別的な言動にさらされた」という事実もない
2つめの「人格的自律権」の侵害という点については、原告主張は、配布文書を閲覧したり、それに文書作成で応答したりすることが、「人格的自律を害する」というものであるが(原告第11準備書面7頁以下)、被告今井としては理解できない。人格的自律権というのは、言い換えると自己決定権であるが、配布文書の記載という他人の表現に触れただけで、仮にその者が不快を感じたとしても、何ら自己決定が侵されたわけではない。もし、無理矢理に特定の思想内容の文書の作成と発表を強制されたら、自己決定権の侵害が生じるということは考えられるが、原告からはそのようなエピソードは一切主張されていない。
原告が述べたいのは、原告の思想信条を侵される危険があったということかもしれないが、それを過度に重視し規制すると表現の自由が無になる。表現の自由の本質が他人の内心に働きかけるというものだからである(被告今井第5準備書面8頁以下、同第6準備書面11頁以下)。また何より実態として、本件の資料配布によっても、原告の思想信条自体は何ら侵されてはおらず、尊重されている。
3つめの「職場において自由な人間関係を形成する権利」というものも、一般論として、「権利」と呼ぶべきかはともかく、幸福追求権の一環としてその種の法的保護に値する利益はあるであろうが、本件では、原告に「職場において自由な人間関係の形成が阻害された」という具体的事実は見当たらない。
結局のところ、原告が主張する人格権侵害の内実たる3種の利益の侵害は、立証されていない。
2 政治的見解等の配布行為との主張(第2類型)に対して
(1)被告今井の資料配布の意図、目的
本件で原告から問題とされている「政治的見解等の配布行為」(第2類型)についても、被告今井としては、第1類型のヘイトスピーチであることが明らかな資料ないし人種的民族的差別を助長する資料と特に区別して資料配布をしているわけではない。
よって、被告今井の資料配布の意図、目的は、前記1(2)で述べたのと同じであり、社員や家族のため、顧客や会社のため、社会や国、将来の子どもたちのためといった多様な目的が不可分一体となったものといえる。資料配布は、業務とも間接的な関連性があるというのも、これまで被告らが縷々主張してきたところである。
(2)職場環境配慮義務違反とされる点に対して
原告の問題意識は、職場という逃れられない閉じられた環境において、使用者という優越的な立場から、特定の思想信条や歴史観に基づいた資料配布が大量になされることは、その内容に異論を有する労働者の就業環境を悪化させるため、違法となりうるというものである。
一方で、さまざまな場面において、政治的な意見やそれを形成するための情報を発表したり流通させたりすることは、憲法が国民に保障する表現の自由の行使として極めて重要であり、私企業内で使用者が労働者に対してなす場合であっても、単にそのことだけで表現の自由の保護が及ばないというものではない。そのこと自体は、原告も争うものではないと思われる。
また、被告らが繰り返し主張しているとおり、資料配布等のツールによって私企業の経営者が自身の考えや価値観を従業員に打ち出し影響を与えようとすることは、企業理念の浸透や社員教育とも密接不可分であり、企業活動の一環としても保障されるべきところである。
結局のところ、もし社内での政治的見解の資料配布が違法とされることがあるとするならば、具体的なその配布の態様を吟味し、社員に対する記載された意見の強制や過度な押し付けがある場合に限られるであろう。
この点に関して尋問から改めて明確になったところとしては、原告にも、他の社員にも、配布された歴史等に関する資料(政治的見解等)については、読む読まないは自由であると周知され(原告31頁。同37頁でも「完全には読んでいない」と原告は述べる。今井13頁)、読まなくとも何ら不利益処遇を受けることはなく、読んだか読んでいないかを上司や会社が確認することもその手段もなく、読んだかどうかやその意見への賛否を人事査定の資料とされたりすることもなく、歴史等に関するテーマについて感想文を書くようにと指示されることもなく(原告51、52頁。菊池6頁。植木1~3、24頁。今井13頁)、配布された資料を社内で捨ててしまう社員もいる(原告11頁)といった点が重要である。
こういう配布等の態様を見ると、資料の閲読自体にも強制はなく、記載の意見に関しても何ら押し付けはない。社員としては、受け取った資料はせいぜい表紙や題名を見て内容を確認し、歴史等の記載テーマに関して関心が持てなかったり記述の論旨に賛同できなければ、読まずに処分するという対応が可能である。捨てるにあたり、目立たないようにするという配慮をする者がいたとしても、それが資料配布の違法評価を左右するものとは到底いえない。
経営理念感想文では、被告今井の配布資料の内容に賛同する意見が多く掲載されるとしても、それは寄せられた感想文の実態を反映したものであり、それをもって意見の強制や押し付けがあると決めつけられるのは失当である。また、経営理念感想文集についても、閲読や感想表明は義務付けられておらず(今井13頁。乙22・29頁)、歴史等に関する資料についての感想文で原告が反発を覚えるものがあれば読まなければ、それにより特段の不都合はない。
原告は、社員の感想文が被告今井の思想に賛同する内容ばかりであり、それが自分にとって圧迫的に感じたとの旨を主張しているが、社員が被告今井に感化されている実態が感想文集にそのまま表れているのであり、それは、思想の伝播、それを受けた呼応、感想文集という形での伝播呼応状況の発表の全ての局面において被告らと社員らの自由領域の問題であって、そういう実態自体を問題視するのもおかしい。
原告は、配布資料の量的な面にもっぱら着目し、それを資料配布の違法性の中核とするようであるが、内容自体に問題がなく、相手への強制でもない表現が、量的な理由のみで違法評価された例はかつてないと思われる。職場というだけで、そういう表現の「内容規制」が許容されるのかは、大いに疑問である。
3 教科書動員との主張(第3類型)に対して
(1)職場環境配慮義務違反との主張に対して
原告は、「教科書動員」と主張する部分(第3類型)においても、被告らの行為は職場環境配慮義務違反であると述べるが、教科書展示会への参加とアンケートの提出等を呼びかけることもまた、憲法が国民に保障する表現の自由の行使の一つとして極めて重要であり、私企業内で使用者が労働者に対してなす場合であっても、単にそのことだけで表現の自由の保護が及ばないというものではない(なお、教科書アンケートが、「国民の意思を国や自治体を通じて公教育に適切に反映させる仕組み」の一つとしても重要であるという点については、被告今井第3準備書面4頁)。
表現の自由の行使の違法性判断についてはその目的も重要な要素となるので、被告今井の教科書展示会参加等の呼びかけの動機についても触れておくと、知人から聞き及んで小学校の歴史教科書の南京事件の記載の有り様を知り、こんな教科書で教わっては子どもたちは歪んでしまう、なんとかせねばならないと思ったというのが、こういった活動を開始するきっかけとなった。そして被告今井は、その活動により、教科書の歴史記述が正されたり日本の偉人伝が多く紹介されたりすると、子どもたちが自信と誇りを持ち、いじめや非行等の問題、学力や親との関係性等にも好影響が生じ、子どもがよりよく成長できる可能性が高まると確信している(今井14、15頁。乙22・25頁)。これはまさしく純粋な公益目的である。
それらの点を考え合わせると、やはり、教科書に関する呼びかけも表現の自由の一環として当然に適法であることが基本となり、もし社内でのそういった呼びかけが違法とされることがあるとするならば、具体的なその呼びかけの態様を吟味し、社員に対する参加の強制や提出するアンケート内容に関する過度な押し付けがある場合に限られるであろう。
この点に関して尋問から改めて明確になったところとしては、原告にも、他の社員にも、教科書展示会やアンケートについては、希望者のみの自由参加であり任意の協力であることが十分周知され、実態としても参加しなかったり関心を示さない社員も多数おり、不参加であってもそのことが何ら社内の人事査定の資料とされたりなどの不利益な取扱いは全く受けていなかったことが挙げられる(原告24、54~56頁。菊池7頁。植木3、4頁。今井15、36頁)。
原告は、業務時間内に社有車への乗り合わせで展示会を回って構わないと社内で被告らが打ち出したことをもって、業務性を帯びているかのようにも指摘するが(今井36頁)、失当である。被告今井の意図は、家族を抱えて忙しいパート女性の方など、賛同してくれる社員が展示会に行こうとしたときに、家庭生活やプライベートの時間に負担になるかもしれないので、そうならないように配慮したというところに尽きる(今井15頁)。
こういう呼びかけの態様を見ると、教科書展示会参加自体にも強制はなく、アンケート記載の意見内容に関しても何ら押し付けはない。社員としては、教科書関係についても受け取った資料はせいぜい表紙を見て内容を確認し、趣旨に賛同できなければ、読まずに処分し、参加もしないという対応が可能である。
(2)原告が受けたとする被害の実情
「教科書動員」とされる点についても、原告に対しては、「人格的自律権、職場において自由な人間関係を形成する権利」の侵害はなかった。
1年目の平成25(2013)年は、原告は、乗り合わせ表に原告も入っており1箇所目の岸和田市の展示会に同行することになったが、植木副部長が音声データを部署内で配布し「参加したくない人は申し出るように」とアナウンスしていたのにその録音内容を原告が聞いていなかったために、乗り合わせ表に記載されただけであり、原告が参加を強制されたわけでは全くない(原告23頁、今井36頁)。
そして原告は、参加した岸和田市の展示会では、「会社から言われてきました。こんなことをさせるような人たちが勧める教科書は選んでほしくないです」との旨アンケートに書いて提出しており、その内容を被告らにチェックされたこともなかった(原告54、60頁)。原告はさらに、2箇所目は不参加とするという意思表明をし、乗り合わせた車に会社に戻ってもらい帰っているし、それにあたり同僚に説得を受けたり責められたりしたこともなく、またその2箇所目不参加については、植木副部長は知らないと思うと述べている(原告55頁。同行した同僚がわざわざ植木副部長に報告したりするとも原告には思えず、また、植木副部長が事後「あなた途中で抜けたらしいね」などと原告を責めたりしなかったためであろう)。
そのように、1年目も、1箇所目で原告の提出したアンケート内容は自身の意思が反映されたものであり、かつ、2箇所目への参加もその意思が尊重されたものであり、原告が行動を強いられたり何ら不利益を受けたりしたこともなく、人格的自律権の侵害は何らない。また、1年目に原告がとった行動により、上司や同僚に非難されて人間関係の形成に悪影響が出たというような事実も主張立証されていない。
2年目、3年目の平成26(2014)年、27(2015)年については、原告は不参加であり、人格的自律権の侵害はありえず、職場において自由な人間関係を形成する権利が侵害されたという事実もない。
植木副部長によると、設計監理課では、1年目は全員が参加したが、2年目は課内では8割、原告と同じCAD担当のグループでは12人中1人のみの参加であり、3年目は課内では約5割、CADでは全員不参加であったとのことである(植木4頁)。1年目は、強制の結果ではなく、被告今井や植木副部長の呼びかけの熱意や新鮮味もあって課内全員参加となったと思われる。
強制ではなかったことの証左として、被告今井がいっそう呼びかけに力を入れていった2年目、3年目は参加率が下がっていっている。また、原告の人間関係のうえで特に重要なCAD担当のグループの同僚らは、ほとんど参加しておらず、不参加が原告の自由な人間関係を形成に支障をきたしたとは到底思われない。
(3)教科書展示会への参加の「勧奨」が違法評価される基準(原告第19準備書面関係)
原告は、本件での教科書展示会への参加の「勧奨」について、退職勧奨が違法となる場合を「せいぜい態様等において、社会的相当性を逸脱した態様での半強制的ないし執拗な勧奨行為があったような例外的な場合にのみ」と限定的に判断した下関商業高校事件の最高裁判例の基準を用いて評価することは、場面が違うのだから不当であると主張する(原告第19準備書面7頁)。
しかし、「退職」という労働者にとってその地位を失う最も重大な行為に関する勧奨ですら、違法とされる場面はそのように限定される。
「教科書展示会への参加」を「退職」と比べたとき、前者の方が重大性は低いことは明らかであるから、教科書展示会への参加勧奨が違法とされるのは、下関商業高校事件の基準よりもさらにいっそう狭く限定されることは明らかである。
4 原告に対する報復的非難・社内疎外を内容とする資料の配布行為(第4類型)に対して
(1)配布目的の正当性
原告は、平成27(2015)年9月7日から25日の配布行為について、原告に対する報復的非難でありかつ社内疎外を図ることを内容とする資料配布であり不法行為に該当すると主張する(原告第11準備書面43頁、別表4-1)。
しかし、被告らの配布目的に正当性はあり、配布した文書の内容も原告の権利利益を不当に侵害するようなものではない。
まず、配布目的の点について述べると、被告らには、当時、原告の提訴に関するマスコミ報道によって生じた社員の大きな動揺を抑え、社内の士気を維持したり、社としての姿勢や主張内容を社員に伝えるという正当な目的があった(今井16、50頁。乙22・31頁。被告フジ住宅第5準備書面13頁以下、被告今井第5準備書面7頁以下、同第6準備書面25頁以下同旨)。
実際原告は、単に提訴行為をなしただけでなく、提訴直後に記者会見を開いてマスコミにアピールし、その結果、新聞紙上では「育鵬社教科書の採択運動 勤務先で強要され苦痛」、「職場で民族差別」、「憎悪表現文書 勤務先が配布」(丙15)などと、必ずしも実態に沿った内容とはいえない見出しで報道され、被告ら及びその社員らは大きなダメージを受けていた。そして、原告側は、大弁護団を組み、本件訴訟の支援団体を組織して、被告らに対するネガティブキャンペーンを社会に対して延々と喧伝していくこととなった(丙16~18等)。本件訴訟は、原告側によって、単なる労働事件の域を超え、被告今井の歴史観やそれに基づく言論活動に対する政治思想的な闘争として展開されている面が多分にあるのも紛れもない事実である。
そういった原告の、提訴だけではない大々的な社会的アピール等への対抗措置、自衛策の一環として、被告らは前記の社内資料配布をなしたものである。
本件は、被告らにも言い分が十分にある事件であり、原告の提訴を被告らとしては不当であると受け止めたことを必ずしも責めることはできず、相応の対抗措置等をとることには相当性が認められる。原告としても、単なる訴訟活動を超えて被告らに社会的非難をもたらそうというアピール行為にも及んでいる以上、会社内や、公的な場で、一定のリアクションにさらされるのも当然である。そういう意味では、前記の資料配布が「非難」であったとしても甘受するべきであるし、「報復」とか「社内疎外(の誘導)」というのは、あまりに一方的な被害的受け止めである(実名も出していないし、実際に他の社員から攻撃を受けたりもしていないことは後述)。
被告今井はその本人尋問において、「フジ住宅や社員を傷付けるという点で提訴が許されない行為だという前提で、他の社員からもこういう批判があることを、全従業員だけでなく、原告本人にも知らせたいという思いもあって、このような資料配布をした」旨を供述したが(原告50頁)、そのような被告今井の意図は、前記の対抗措置、自衛策という目的とも両立するものである。
また、被告今井は、資料配布により、原告が社内で直接他の社員から攻撃を受けるように仕向けようとか、報復措置として村八分のように原告を疎外してやろうという意図であったと述べたのではなく、「提訴と報道により会社が大きなダメージを受けて、社員も大変傷ついたり憤っていることを、原告にも知らせたい、分かってもらいたい」ということを供述しただけであった。前記の被告今井の供述をもって、一種の加害意図まで認定されるのは行き過ぎである。かような被告今井の配布意図自体も、違法と断じられるようなものではない。
なお、被告今井に対する補充尋問では、裁判長から、「従前(提訴前)は、社員の『業務日報』は部門長会議資料として配布されるのみで、全社員配布されることは全くなかった(が、提訴後の資料配布においては、原告の提訴を批判する内容の記載のある『業務日報』が全社員に配布されるという、かつてない踏み込んだ行為を被告らがなした)」という前提で、質問がなされたように思われる(今井49、50頁)。
しかし、今回証拠提出した全社員配布資料の一部(乙25の1ないし11にも明らかなとおり、提訴前の時期にも、正社員の業務日報や業務報告書のうち被告今井の目に留まったものが全社員に配布されることはたびたびあったのであり、裁判長の補充尋問の前提理解が前記のようなものであるならば、それは正しくない。よって、提訴を批判する内容の業務日報類が全社員配布されたことをもって、報復や社内疎外という加害意図のようなものまで認定されることは失当である。
その点について、被告フジ住宅の答弁書3頁下から5行目にて「原告は『正社員の業務日報も全社員に配布している』と主張するが、そのような事実はない。」等々述べられのは、「業務日報一般は、全社員に配布するものではない」ということと、「ヘイトスピーチ記載があるものとして甲第2号証の2ないし5として証拠提出された業務日報の類は、部門長会議資料として限られた社員に対し配布された」という趣旨の認否である。被告今井がピックアップした一部の業務日報類が全社員配布されることがあることまで否定したものではない。
(2)配布資料の客観的内容
配布資料の内容について、具体的に人証調べで触れられたものについて吟味すると、「温情を仇で返すバカ者に憤りを感じます」(甲35の1・208頁。原告27頁)、「哀れで愚かで、本当にムカツキます」(甲35の1・238頁。原告27頁)との記載については、当該社員が、本件の提訴とそのマスコミアピールについて憤りや憐憫を感じることや、それを業務日報に書くこと自体は当然ながら問題ではない。「バカ者に憤りを感じる」、「ムカツキます」等の書きぶりも、報復的攻撃や疎外とまではいえない。
「これから彼女に対して世間から本当の意味でのヘイトスピーチが始まると思います」(甲35の1・324頁。原告27頁。今井40頁)との記載も、その内容は「提訴が世間から批判されるだろう」ということを若干辛辣に述べたものであって、「非難」ではあっても、不当な「報復」とまで評価するのは妥当ではなく、「世間から」という記載からしても「社内疎外を図る記載」と決めつけるのも行き過ぎである。
「在日韓国人は新規採用しないでおこうという、暗黙のルールができるように思います」(甲35の1・413頁。原告29頁。今井42頁)という記載についても、その部分だけを取り上げて評価されるのは妥当ではない。書き起こすと「今回の訴訟の件ではその他の在日韓国人の方が一番迷惑しているように思えます。多くの事実無根の話で提訴し、会社の信用問題に関わるような事をされた訳ですので、今後、企業側とすれば何もなくてもこのような話がでっちあげられる恐れがあるので、在日韓国人は新規採用しないでおこうという、暗黙のルールができるように思います」というのが当該部分の全体である。
すなわち、「新規採用しないでおこうという暗黙のルール」は被告フジ住宅内のルールとしてできると書いているのではなく(なお、実態としても、被告フジ住宅内にそういうルールはできていないという点については、今井43、44頁)、企業一般でそういう事態になるのではないかということが想定されるという趣旨である。また、論旨も、在日韓国人の排除(不採用)を進めるべきというものでは全くなく、「この提訴が契機になってそういう事態が生じると、他の在日韓国人の方々が迷惑を受けることになり、気の毒である」という憂慮が所感として記されているのである。記載内容を正当に読み取れば、上記記述も原告に対する報復的非難でも社内疎外でもないことは明白である。
(3)配布資料に実名等は一切出していないこと
提訴後の配布行為に関する配布資料の客観的内容においてもう一つ非常に重要なのは、原告の実名や、個人を特定する情報は一切掲載していないという点である。
そのため、挙げられている資料の配布があっても、被告フジ住宅内の社員1000人の中のどの在日韓国人の社員なのかは、各社員には分からないというのが実情であった。
原告個人が特定されていなければ、「報復」や「社内疎外」という効果は、少なくとも客観的には生じない。誰か分からなければ、社内で他の社員が原告に対して非難の目を向けたり、疎外したりしようがないからである。
原告の主観としては、自分の提訴が被告らや社員の一部から批判的に受け止められている認識は生じるわけであり、そういう意味では原告の内心にも影響はあることは否定しないが(但し、そこまで法的保護の対象とせねばならないとは思われない)、配布文書内で個人が特定されているかどうかで、当該個人に対する影響の質は、全く異なる。
一般社会でも、個人が実際は特定されていても、実名を出さずに、不適切な行為を止めるように張り紙等でアナウンスしている例は多い(例えば、マンションなどの共同住宅において)が、それは、当該個人に対する制裁や村八分のような効果を生まないようにという配慮である。
被告らがそのように、前述のような対抗措置や自衛策を講じつつも、実名等を出さないという形で、原告個人に対する配慮も相応にしていたことは、提訴後の配布行為の違法性の評価において重視されるべきである。
(4)資料配布後、実際に原告が社内で攻撃されたり疎外されたりしていないこと
提訴後の資料配布を経ても、原告が社内で、他の社員から直接に攻撃されたり、所属部署やグループの中で疎外されたりしたという具体的事実が一切ないことも、極めて重要である。
そのこと自体が何より、配布資料が原告への報復や社内疎外の現実的効果をもたらす内容ではなかったこと、そして被告らにもそういう加害意図はなかったことを裏付けるものである。
原告は提訴後の資料配布により被った被害を強調するが、被告らの配慮に加え、被告今井が作った被告フジ住宅の社風の穏やかさやその社員らの優しさもあって、原告は、資料配布とは関係なく現在も平穏に就労を継続できているというのも事実である。
(5)主たる請求と提訴後の配布行為の関係性
提訴後の配布行為の違法性の評価においては、主たる請求との関係性にも十分に留意されねばならない。
すなわち、提訴時の原告の請求は「ヘイトスピーチないしこれに類する資料配布行為」(第1類型)、「政治的見解等の配布行為」(第2類型)、「教科書動員」(第3類型)であった。第4類型の提訴後の配布行為は、提訴後に追加で不法行為として請求がなされたものであり、第1類型から第3類型と、第4類型とは、主従の関係があるといえる。
具体的には、第4類型は、第1ないし第3類型に関する提訴行為を非難する資料を被告らが社内で配布したこと不法行為と主張するものであるが、第1ないし第3類型の不法行為の成立が認められるかどうかが、第4類型の不法行為の成否の判断を大きく左右する構造となっていると被告らとしては考えている。
第1ないし第3類型の不法行為の成否も、第4類型の不法行為の成否と合わせて判決で判断が示されるため、あくまで仮定の議論となるが、仮に第1ないし第3類型の不法行為の成立が認められるのであれば、法的に理由のある請求について提訴する行為を相手方(被告ら)が批判することは、正当性が乏しいということになろう。
しかし逆に、第1ないし第3類型の不法行為の成立が認められないのであれば、法的に理由のない請求について提訴した行為を被告らが批判することは、基本的に正当性が認められてしかるべきであろう。権利がないのに会社を訴えているということであるから、「それはおかしい。間違っている」と会社から指摘されてもやむをえないと思われるからである。
よって、本件でも結論は分からないが、「ヘイトスピーチないしこれに類する資料配布行為」、「政治的見解等の配布行為」、「教科書動員」といった理由で損害賠償請求が認められないのであれば、「提訴後の配布行為」が違法とされることは原則的になく、違法になるとすれば、配布に関しての動機や資料内容のよほどの悪質性、深刻な現実的被害の発生が認められるようなごく例外的なケースに限られると解されるのである。しかしながら、本件で、かような悪質性や現実的被害は認められない。
言うまでもなく、提訴行為に対する批判も一つの意見表明として表現の自由の行使そのものであり、安易に違法評価され制限されることがあってはならない。
その観点からは、請求が棄却されるような訴訟でも、提訴自体が違法と評価されるような「不当訴訟」でなければ相手方(会社側)から請求者(従業員)を社内で非難してはいけないという解釈は、あまりに偏ったものであると思われる。
(6)小括
以上のような諸要素を総合的に考慮すると、平成27(2015)年9月7日から25日の資料の配布行為について、原告に対する報復的非難・社内疎外として、不法行為請求における違法性や損害が認定されるべきではないことは明らかである。
5 まとめ
以上の次第であり、原告の請求はいずれも理由がなく、速やかに棄却されるべきである。
以 上
この記事に寄せられたコメント(一部)
裁判所までおかしな事になってしまいました。
何もできませんが、応援しています!!
私は一人の日本国民として、御社の主張を全面的に支持致します。御社の姿勢に、ユーザー、関係会社、多くの日本国民が感銘を受けているはずです。
挫けることなく、御社役員従業員が団結し立ち向かって下さい。
心より応援致します。
関東ですが、今度何かあったらお仕事お願いしますね。
すばらしい理念をお持ちの経営陣の方々を応援するつもりで株も一時持っていました。
最後まで意思を貫いていただけると信じ応援して居ります。