平成27年(ワ)第1061号 損害賠償請求事件
原 告
被 告 今井光郎、フジ住宅株式会社
被告今井第6準備書面
平成30年5月8日
大阪地方裁判所堺支部第1民事部合議C係 御中
被告今井光郎訴訟代理人
弁護士 中 村 正 彦
1 はじめに
原告は、その第13準備書面における整理により、(ア)「ヘイトスピーチないしこれに類する(人種的民族的差別を助長する)資料配布」が被告らの不法行為ないし債務不履行とされる「行為類型」の一つであり、その「違法性・責任根拠」が、被告会社については「職場環境配慮義務違反」で、被告今井については原告の人格権の侵害であり、原告の「被侵害利益」は、「差別的な言動にさらされずに就労する権利、人格的自律権、職場において自由な人間関係を形成する権利」であるとする。
そして、(イ)「政治的見解等の配布」、(ウ)「教科書動員」、(エ)「原告に対する報復的非難・社内疎外を内容とする資料の配付」という各行為類型は、被告今井については、「人格的自律権、職場において自由な人間関係を形成する権利」という人格権の侵害であり、被告会社については「職場環境配慮義務違反」であるという。
上記(ア)の主張については、実質的には、違法性の内容が、①配布資料がヘイトスピーチないし差別助長の内容であるという点と、②職場環境配慮義務という点と、③原告の人格権の侵害(被侵害利益)という点の3要素あり、それらが組み合わさって請求根拠とされているものと被告今井としては理解する。
それらの各要素について、以下、反論と、被告今井としての主張の補充をなす。
②職場環境配慮義務と、③原告の人格権侵害(被侵害利益)という点は、上記(イ)、(ウ)、(エ)の原告主張の要素でもあるので、以下述べるところは、それらの主張への反論も含んでいる。
2 配布資料がヘイトスピーチないし差別助長文書であるとの主張に対して
(1)ヘイトピーチにあたる文書の配布行為とされる点への再反論
原告第14準備書面21頁以下では、被告らが配布した文書の表現(原告第11準備書面別表2)がヘイトスピーチに該当しないとの被告らの主張に対する原告の反論が述べられているので、以下再反論をなす。
ア 別表2「1」
原告は、被告今井が紹介した映像(甲23・75~85頁)は「排除を煽動するものではない」ことは認めている。その点は、被告今井の資料配布の意図が正しく理解されたものと考える。
YouTubeの記事付随の第三者のコメントに「在日は死ねよ」という言葉が紛れ込んでいたことについて、「丹念にヘイトスピーチ、人種差別を探し、該当するものを削除、抹消しなければならなかった」と原告が指摘する点は、そのような処置が望ましかったというレベルの意見としては、被告今井としても特段に異を唱えるものでもない。
しかし、「過失」でそのような処置を漏らしたことが、ヘイトスピーチとして法的に違法評価されるわけではない。ヘイトスピーチの定義は曖昧であるが、少なくとも、積極的な害意あるいは故意がなく、過失で配布資料の末端に差別的な言葉を混入させてしまったケースまで、「あなたがした行為はヘイトスピーチだ」として行為者を責めるのは、法的評価として不当である。
本件においては、「在日は死ねよ」というのは、被告今井が述べたり記載した言葉ではないことにも留意が必要である。被告今井自身がそういう記述をしたものが、うっかり流出したというケースでもないのである。
被告今井が日頃、「在日は死ねよ」とかそれに類する排除的、差別的メッセージを流布していたわけでもないことは、原告を含めた従業員らはよく承知している。そのため、「在日は死ねよ」という言葉が資料の末端に偶々載ったからといっても、読んだ者が、被告今井が在日韓国人について「排除を煽動している」と受け取るはずもない。
イ 別表2「2」
原告は、中宮崇氏が用いた「差別ニダ!」とか「在日朝鮮族」という言葉(甲3・132頁)が揶揄や「通例ではない表現」であるとか、金教授の出自に触れずに批判することが可能だったはずであるとか、「○○人はみんな○○だ」と決めつけるのは人種差別主義的表現だ等々述べている。しかし、それらの原告指摘は、ヘイトスピーチへのあてはめから大きく逸脱し、表現の質や、意見内容の当否に関する議論をなしているに過ぎない。
原告が中宮氏の言論について、「不適当だ」「こう書くべきだろう」というような次元の主張をすることは自由であるが、ヘイトスピーチとして、そもそも法的に許容され難い人種差別言論なのかというのが、争点のはずではないのか。
ウ 別表2「3」
原告は、「韓国のずるさ、卑劣や嘘つきぶりは世界でも類を見ないであろう」(甲24・105頁)との記載について、「国も国民も民族も一緒くたにして」韓国人などに対して否定的な性格づけがされていて、それと対をなすように日本人は善良な存在として語られているという言説構造があり、そのような言説がなされる理由は、日本の歴史の「負の部分」を消去ないし最小化しそれらの問題の源泉を「韓国(人)」に投影しているからだという板垣教授の解説を引用している。こういった主張にもいくつもの疑問がある。
そのような独自の心理分析も一つの解釈として提示されることは構わないが、法律的なヘイトスピーチ該当性というのは、そのような踏み込んだ意味解釈を経なければ、あてはめができないものなのであろうか。深遠な分析を経て、「差別的心情」を無理に見いだし、違法言論というレッテルを貼る作業が、果たしてフェアなのであろうか。
韓国や韓国人に関する表現にも、
① 国際政治や歴史に関する特定のテーマを題材とした差別とはいえない批判
② 読み手が深読みすれば、韓国への差別的な心情が潜んでいるとも解釈できるような意見や感想
③ 人種差別であることが言葉や表現として明らかな言論
④ 排除、害悪告知、著しい侮蔑などの要素を備えたヘイトスピーチ
というようなさまざまな段階があるはずである。しかし原告は、本件での配布資料を、実態は①のレベルの表現に過ぎないものを、独善的な解釈を施して②にあたると強弁し、さらに、特に理由付けもしないまま、それは差別である以上、すなわち③、さらには④にも該当し違法というような、理解し難い論理の飛躍を述べているといえる。
そして何より、被告らが繰り返し述べている、当該記述は「従軍慰安婦強制連行問題」という重要な国際問題や政治的な課題についての意見等の論述であり、そういった政治的言論の表明は、単なる特定の民族に対する侮辱的表現とは別に、表現の自由により何よりも保障されねばならないのではないかという疑問には、原告は結局のところ答えられない。
エ 別表2「4」
被告今井第4準備書面7頁でも述べたが、問題とされる甲第24号証の87ないし89頁の資料は、87頁の送付書での趣旨説明の「A」部分から分かるとおり、配布DVDの「櫻井よしこ氏 従軍慰安婦の嘘を暴く」というYouTube映像の紹介そのものが目的である。原告が問題であるとの指摘コメント欄は、単にその映像を紹介するためのトップの画面(88頁の上半分)に付随して刷り出されてそのまま配布資料に含まれたものに過ぎず、コメント内容の紹介は、この資料配布にあたり特に意図されていない。
また、コメント部分を吟味検討してみても、原告がヘイトスピーチであると指摘する直前の部分には、「画面右側の男性は真剣に櫻井よしこさんの話を聞いていた。当然ですが、韓国の中にはこの様な人もいるんですね、推測するにこれほど日本語を理解されていたことから日本在中の方なんだろうと思いますが、すべての韓国人が悪い人ではない。韓国政府はこれ以上敵対視しないようにしてほしいものですね。」とあり、当該コメント全体の趣旨として、全ての韓国人の態度を否定的に評価しているわけではなく、国家間の関係についても建設的な意見が述べられているのである(甲24・89頁)。
ヘイトスピーチとされる部分の最後の「恐に足らない者に対しての攻撃性は見るに堪えがたいものがあります、」という文にも、続けて、「このような大人達は日本にも沢山います」と書かれていて、韓国人と日本人を一律に線引きして日本人を闇雲に礼賛しているわけでもないのは、文脈からは明らかである。
「野生動物」という言葉が使われていたとしても、ここでは恐れるに足らない者に対しての攻撃性を否定的に評価する例示にすぎず、記述を全体として評価したときに、ヘイトスピーチとは到底評価できない。
論評の文脈や、文章全体の論旨、バランスもとられた書きぶり等を一切無視して、「韓国人は~だ」と否定的コメント部分のみを恣意的に切り取って人種差別言説だと非難するのは、悪意ある「言葉狩り」である。
オ 別表2「5」
原告はここでも、「歴史を捏造してでも相手を謝罪させることによって、常に立場の優劣をはっきりさせねば気が済まない民族」等の記載をもって、十把一絡げの否定的評価、歴史否認などと論難する。
しかし、ある民族の特定の側面について否定的な表現をしただけで、即ち差別だと断定するのは、あまりに単純にして極端な決めつけである。
そもそも、問題とされる文章の筆者は、従軍慰安婦に「強制連行」はなかったにもかかわらずそれを認めず、日韓基本条約締結とそれによる賠償金支払いにより解決した問題についてさらに賠償金を要求する韓国の姿勢はおかしいという認識のもと、そのような姿勢に表れている民族としての特性について、自身なりの意見論評を述べているに過ぎない(甲24・97、98頁)。
さらに、ここで論評されている民族や韓国人という概念も、「従軍慰安婦問題に関する韓国の国家的見解を支持する政治単位としての国民」が想定されているのであって、「個々の韓国人全て」とか「在日を含む全韓国人」という趣旨で書かれているものでもないことは、通常一般人の読解力をもって読めば理解できることである。
カ 別表2「6」
この部分の「韓国は永遠に捏造する国家」という部分も、「韓国の大統領がアメリカ議会で日本を『正しい歴史認識なければ明日はない』と批判して」いたことについてのCなりの意見論評である(甲22・1004頁)。
他国とはいえ、政府の外交姿勢に批判を加える言論が許されないとされるのは、到底理解し難い。
原告は、十把一絡げにした本質主義などと批判するが、反論になっていない。
また、原告は、自らに対しても批判の矛先が向くと感じるのは、「こうした言説構造に起因する」などとも板垣意見書を援用して述べるが、他国の対外政策の批判をするにあたり、他者が独自に解釈する「言説構造」まで考えて表現を選ばなければ、個人への差別で違法などと指弾されるのは、恐ろしいことである。
キ 別表2「7」ないし「16」
別表2「7」ないし「16」についても、原告の反論内容は、長々とした修飾が施されているが、要は「『韓国は~だ』、『韓国人は~だ』と否定的な言葉を用いて叙述するのは差別だ」という一点を繰り返しているだけである。
しかし、①国家間の歴史的政治的課題や、現代韓国の実情やエピソードを題材とした政治的意見論評であり、差別ではない、②韓国という国家の姿勢や施策に対する批判を個々の、あるいは全ての韓国人に対する批判と受け取るのはおかしい、③書きぶりや言葉も到底ヘイトスピーチとされるような表現ではないといった被告らの反論については、原告は何ら答えていないに等しい。
個々の資料上の表現についての被告今井の反論は、被告今井第4準備書面7頁以下で述べたとおりである。
(2)原告の各種主張に対する個別の反論
ア はじめに
原告は、ヘイトスピーチないし人種・民族への差別助長を内容とする資料を被告らが配布していると主張するが、被告らとしては、配布資料がヘイトスピーチでも差別助長文書でもないということは主張の大前提としたうえで、原告のかかる主張について、差別表現と表現の自由の観点から、反論をなす。
イ 人種差別表現は名誉毀損表現・プライバシー侵害表現と同列の表現内容規制との主張に対して
原告は、人種差別表現は、名誉毀損表現・プライバシー侵害表現と同列の表現内容規制だと主張するが(原告第14準備書面5頁)、少なくとも、本件のような私人間での損害賠償請求の局面において、それらを同列に位置づけるのはあまりに乱暴である。
名誉毀損やプライバシー侵害は、個人の被害者が特定されており被侵害利益も明確であるが、人種差別表現は必ずしもそうではない。人種差別表現であるから、当然に不法行為の要件を満たすというものではない。むしろ、集団に対する表現それ自体は、仮にそれが人種差別的な表現を一部に含むものであったとしても、個人に対する不法行為は成立しないというのが先例である(被告今井第1準備書面1頁以下)。
改めて整理して述べると、民族的集団に対する政治的な批判の言動(一部に侮蔑的な言葉や差別的な表現が一部含まれることはありうるが、迫害や排除の煽動という狭義での「ヘイトスピーチ」には至らないもの)は、不法行為や職場環境配慮義務における「違法性」の判断との関係では、原則として違法性を帯びない。理由は次のとおりである。
不法行為においては、保護法益(人格権等)を持つ「個人」の「個別的権利や法的利益」に対する侵害であるときに違法性が認められるのであり、言論による「攻撃」(侵害行為)が特定の個人に向けられたものではないとき、そもそもその個人に対する違法な侵害自体がないと言える。
本件の資料に見られる例えば従軍慰安婦問題をめぐる韓国や韓国人への批判は、かつて韓国を植民地としていた日本との歴史的な関係を背景にした韓国(人)からの日本(人)に対する批判に対するリアクションであり、仮に嫌悪感情がそこに含まれていたとしても、政治的言動としての性質上、その問題に直接関連していない特定の個人に対する攻撃ではないことは明らかであって、それによって「韓国民族」に属する「在日」の人物(たとえば原告)が不快感を感じたとしても、不法行為にいう違法な侵害行為が存在しないのである。
上記の本質的な疑問については、実質的に原告は反論できていない。あえて言えば、「職場環境配慮義務」という論理をもってその難点を糊塗しようとしているようであるが、かかる論理の問題点については後記3で述べる。
ウ 違法性阻却事由を被告らが主張しているわけではない
原告第14準備書面では、原告は、「被告らは、意見・論評なので、人種差別・ヘイトスピーチであったとしても違法性が阻却されると主張している」というようなまとめがされているが(5頁以下)、被告らはそのような主張はしていない。
内容や文脈からして法的に許容される意見論評であり、かつ、人種差別表現にもヘイトスピーチにも該当しないため、そもそも違法な行為ではないというのが被告らの主張である。
被告今井が第4準備書面の2頁以下で、「意見・論評の表明による名誉毀損の成否」に関する「公正な論評の法理」を参考にした議論はしたが、名誉毀損表現と人種差別表現が同一の枠組みで違法性やその阻却が判断されるとは被告今井も考えていない。
被告今井は上記議論において、意見・論評による名誉毀損表現においては、「人身攻撃に及ぶなど意見ないし論評の域を逸脱したもの」かどうかが問われるのであるから、人種差別表現の法的評価においてもかかる要素が吟味されるのが相当であろうということを述べたに過ぎない。
エ 言葉狩り/国家による言論統制の危険
原告は、被告会社の社内で配布された資料について、ヘイトスピーチに該当する、あるいは差別的で法的にも許容され難い内容であると繰り返し主張し、その第14準備書面(21頁以下)では、文脈を一切無視して「こういう言葉を述べること自体許されない」旨の指摘を重ねる。また、その第15準備書面(7頁)では、表現自体がヘイトスピーチや人種差別に該当すれば、状況や文脈に関係なく違法であるとの暴論まで述べているが、それらはもはや、表現の自由の意義を無視した「言葉狩り」である。
仮に被告らが配布した資料が、もしリベラルとか革新的とか左派色といわれるような論調のものであれば、いかに苛烈な表現であっても量的に多いものであっても、原告は問題視はしないのであろう。とすれば、原告は、自身の政治思想や歴史観に相容れないものについて、ヘイトスピーチ、差別表現だとレッテルを貼っているものと被告今井とすれば受け止めざるを得ない。
しかし、「こんなことは言ってはならない。そんなきつい言い方はしてはいけない」などということが道徳やマナーの次元を超えて、法律上打ち出されるということは、極めて危険なことである。「ヘイト表現は許さない」という理屈は、一歩間違えば、「日本(人)一般に対するヘイト表現も不可」というように、国家による言論統制を正当化する方便に使われかねない。
オ 思想内容を否定することへの違和感
さらに指摘すると、原告の被告らへの批判の中には、表現の許容性を超えて、「そういう思想や考え方、歴史観自体がけしからん。間違っている」というような主張すら散見される。例えば、原告第14準備書面49頁以下では、被告らの配布資料に見られる歴史認識について、原告は、「歴史修正主義」とレッテルを貼り、「ヘイトスピーチ、ヘイトクライム、虐殺、戦争へと人を誘導するもの」等と断罪している。また、原告第14準備書面55頁以下や、原告第6準備書面22頁以下では、日本人の美点や日本の歴史の誇るべき点を語ることも、人種差別的思想のあらわれであり不当なメッセージとなるかのように主張されている。そして、それらの主張は実質的に、被告らの資料配布が内容的に違法な表現であるという理由の一つの支えとされている。
原告のそういった考え方自体が被告今井には到底理解、共有できないが、何より、訴訟という法的な議論の中で、かように思想信条の内容そのものにまで否定的評価が強調され違法評価の理由とされることに、被告今井としては、強い違和感を抱く。
そういった原告主張の特徴からすると、本件訴訟の実情は、ヘイトスピーチ論や職場環境配慮義務という理論に名を借りた一種の思想的政治的闘争であるとみなさざるをえない。
被告今井としては、本件訴訟において、思想や歴史認識自体の当否に立ち入って闘争するつもりもない。それらは、裁判所に持ち込まれるのが相当なものでは全くなく、「思想の自由市場」に委ねられるべき次元の事柄である。
被告今井としては、指摘されている資料の記載が、配布すること自体が許されないような類のものか、そして原告個人の権利利益を侵害するものであるのかを、文脈も踏まえて冷静に評価いただくことを求めるのみである。
カ 市川正人教授の論考より
上記のような被告今井の主張の正当性は、表現の自由と人権の関係について述べた市川正人教授の論考「表現の自由②-表現の自由と「人権」-」(判例時報社『法曹実務にとっての近代立憲主義』47頁以下)中の、人種差別や人種等を異にする集団に対する暴力行為の煽動を処罰する法律(ヘイトスピーチ規制法)の合憲性に関する下記のような論述(同書61頁以下)によっても裏付けられる。
「『思想の自由市場』論からすれば、言論には言論で対抗するのが原則であり、言論で対抗する余裕がないような緊急の場合にのみ言論が禁止できるのが原則である。そうすると、差別や暴力行為の煽動についても、少なくとも言論が重大な害悪を発生させる蓋然性が明らかであり、かつ、害悪の発生が差し迫っている場合にのみ言論を処罰しうるという『明白かつ現在の危険』の基準が妥当すべきであるということとなろう。」
「ヘイトスピーチについては、『思想の自由市場』論、対抗言論の原則は妥当しない、あるいは、限定的にしか妥当しないという批判がある。(…中略…)しかし、人種差別の煽動に対しても、基本的に差別の不当性を主張する言論によって対抗することが可能である。」
「また、そもそも『思想の自由市場』論においては、本来、だれでもが思想の自由市場に登場することを禁止されていなければいいのであって、表現行為のしやすさや思想内容の受け入れやすさは問題とならない。それゆえ、実際に反論することが困難であるとか、反論が有効性をもたないがゆえに『思想の自由市場』論は十分には機能しないので、当該表現を禁止すべきだという主張は、『国家の規制によってこそ健全な思想の自由市場が確保されるという理解』をとるものであって、『思想の自由市場』論に立つ表現の自由論に大きな修正を加えようとするものである。しかし、こうした立論を安易に認めれば、『〈思想の自由市場〉の実質的な保障』、『表現の自由を守るため』といった名目で、国家による広い範囲の表現行為の禁止が認められることになり、表現の自由の保障は大きく損なわれることになるであろう。」
上記の論述は、政府(国)が国民の表現行為を直接に規制しうるかという議論に関するものであり、被告らの表現行為が原告に対して不法行為となるかという私人間の問題である本件とは、想定する局面が若干異なる。
しかし、仮に本件訴訟で被告らの資料配布が不法行為や債務不履行等に該当すると判決で認定された場合、同種の表現の自由の行使は、違法性のある行為として間接的にではあるが法的に禁じられた状況となる(判決理由が尽くされたとしても、適法な資料配布と違法なそれの境界を明確に示すことは非常に困難であろうから、企業社会での類似の言論行為にも、多大な萎縮的効果をもたらすと予想されることも付言しておきたい)。
さらに、次の段階では同種の「違法」表現行為の差止請求訴訟という形で、裁判所という国家機関の助力をもって私人の表現活動が事前に直接規制される事態に発展する。
表現の自由と名誉やプライバシーの関係が問題となった「北方ジャーナル」事件や「エロス+虐殺」事件も、民民の紛争ではあるが、表現の自由への国家規制とイコールの問題として憲法論の観点から極めて慎重な考慮がなされたことに留意されねばならない。
3 「職場環境配慮義務」との主張に対して
(1)「職場環境配慮」というのは感情的反発の言い換えに過ぎない
原告は「職場環境配慮義務」を会社が労働者に対して負うと主張し、逃げられない環境である職場で優位な立場にある会社が労働者に対して政治的な内容を含む資料を多量に配布することは労働者の人格や自由への配慮を欠き違法である旨主張する(原告第14準備書面13頁以下等)。
しかし、本件で、原告の人格や自由への配慮を欠いている資料配布であると主張されているものは、被告らが縷々述べているとおり、ヘイトスピーチでもなく、人種や民族への差別(助長)を内容とするものでもなく、政治的見解や歴史認識が内容となっているものである。「教科書動員」と分類される資料もそうである。
そして、資料の内容が、保守的な論調であるがゆえに原告から問題にされていることも明白である。もし社内配布資料が、リベラルあるいは左派的な内容であるとすれば、それと親和性のある思想を有する原告は全く問題視しないのであろう。
つまり、原告の本件の損害賠償請求は、「資料の記載が、異なる思想を有する自分にとって、内容的に不快」というところを実質的理由としている。
結局のところ、原告が受けたという被害の実体は、表現内容に対する感情的反発や政治思想的反感なのである(「差別的な言動にさらされずに就労する権利、人格的自律権、職場において自由な人間関係を形成する権利」という被侵害利益の主張への疑問については後述)。
「自分にとって不快、反感が湧く」という非常に主観的な感覚が、「職場環境配慮」という一見客観化した呼び方にすり替えられ、いかにも客観的な規範らしく語られているだけなのである。
(2)「職場環境」によりリベラルな言論も社内で制約される危険あり
仮に原告が「主観ではない。好き嫌いではない。内容に関係なく政治的な資料が配布されることが問題なのだ」と主張を貫くのならば、思想的な左右に関係なく、およそ政治性や政治性を帯びた資料は社内配布できないということになろう。しかし、それが本当に良いことなのであろうか。
例えば、官民問わず、労働組合が、労働条件改善要求等の本来的な活動にとどまらない内容の、思想的主張(「安保法制反対!」等)や政治的活動(イベント等への動員への協力要請も含まれる)を記したビラ等をかなりの頻度で配布している職場は存在する。使用者側がそういったビラ配布行為も許容ないし黙認し、施設管理権により禁止はしていない場面も多い。
しかし、職場には多様な思想の労働者がいて当然であるから、そういったビラ等の内容に感情的反発や政治思想的反感を抱く個々の労働者も、一定割合は存在しているであろう。
「環境」というのは、ニュートラルな概念である。保守的な言論は環境を害するが、リベラルな言論は環境を害さない、というものではない。もし、原告の言うように「職場環境への配慮」を強調し、「政治的主張の記された表現に曝されると、異なる思想を有する者の人格的自律が脅かされたり私的な領域への介入になるので、配布すべきでない」とするならば、いずれ、そういった組合ビラの類も、「その内容に不快を感ずる者がいる」という理由で、賃上げ要求等の労働組合の本来的活動以外のものは、その配布が、使用者との施設管理権や職場秩序維持との関係ではなく、労働者個々人の人格的利益との関係で、規制されかねない。つまり、会社が配布を許容しているとしても、個々の労働者が、職場環境配慮義務を理由に、会社や組合に損害賠償や差止の請求をなすというようなことも考えられる。
原告は、「労働者に対して優位に立つ会社や経営者が配布するのが問題なのだ。使用者側ではない労働組合が配布する場合は、抑圧的に働かないから問題はない」と反論するのであろうが、本当にそういう議論にとどまるものなのであろうか。
会社や経営者が、雇用する労働者の環境に配慮する義務があるという立論ならば、その延長上で、組合も、その職場で働く組合員以外の労働者の環境の維持に一定は協力せねばならないという帰結になりうるように思われる。
職場環境には、会社だけでなく、組合も各労働者も影響を与えうる。会社側は職場環境を整えなくてはならないが、組合は会社が整えた職場環境を乱しても構わないというのは、無理があるのではないか。職場環境配慮義務そのものの主体は会社であるとしても、「会社が整えた職場環境の維持」には、組合も個々の労働者も協力すべきという解釈に発展しうる。
つまり、「職場環境配慮」という論は、組合あるいは個々の労働者の表現の自由への規制を正当化する理屈にもなりうるように思われる。
そのような点で、本件訴訟における原告主張も、「気に入らない内容の表現を違法と指弾し、黙らせることができて、良かった」ということで終わるのかというと、そういう保障はまるでなく、ブーメランのようにたちまち自らに返ってくる危険を孕んでいる。それが、表現の自由の規制拡大の、誰にとっても怖いところである。そういった「職場環境配慮義務」を根拠とした表現規制の危険性も踏まえて、本件においては慎重に法的な評価が加えなければならない。
(3)「職場環境配慮義務」を根拠とした表現規制の民間企業への悪影響
もし、原告が言うところの「職場環境配慮義務」を十分に遵守しようとすれば、職場は思想的に左右のいずれにも偏ってはいけないし、さらには、左派・右派の対立軸に集約されない多様なテーマに関するさまざな意見も「政治的な見解」であれば、繰り返し資料配布することは法的に問題ということになろう。
しかし、その結果として、社内では「全方面ノンポリ」な資料しか配れない、思想的に無味中立な社員教育しかできないというような企業社会が出現した場合、そこは、おそらく、別の意味で非常に息苦しい環境に違いないであろう。民間企業が全て、公務員のような政治的中立性に縛られるようなことになると、会社にとってだけでなく、労働者にとっても不自由で活気を欠く職場になるのではなかろうか。
そういった状況下では、民間企業のエネルギーや、自由で多様なビジネスアイディアなどが、欠乏していくことも必然である。被告今井第5準備書面1頁以下にも記したが、「特色を出す」というのが私企業発展の生命線であり、各企業にさまざまな在り方が認められることが資本主義社会の大前提なのである。その在り方の一つとして、一企業が思想的に一定のカラーを帯びることも許容されて当然のように思われる。
そして、本件に即して言えば、被告今井が保守、愛国の思想信条を事業と無関係に従業員に喧伝しているのではなく、被告会社の企業理念や営業施策とも必然的に結びついているということも重要である。それについては、後記4で詳述する。
(4)原告が主張する内容の「職場環境配慮義務」が認められた例は裁判例上存在しない
原告は、福岡セクシュアルハラスメント事件判決(福岡地裁平成4年4月16日。以下「福岡事件」という。)や日本土建事件判決(津地裁平成21年2月19日)において、職場環境配慮義務の存在が肯定されていると主張するが(原告第14準備書面17頁)、本件訴訟で原告が主張するような内容の職場環境配慮義務が、それらの判決で認められているわけではない。
福岡事件は、部下の女性との対立関係に関連してその女性の異性関係をめぐる行状や性向についての悪評を流す等した上司の行為に対する適切な対処を怠った会社幹部について、被用者のために働きやすい職場環境を維持するよう調整する義務への違反が存するとして、会社の使用者責任が認められた事例である。
この件では、使用者には「労務遂行に関連して被用者の人格的尊厳を侵しその労務提供に重大な支障を来す事由が発生することを防ぎ、又はこれに適切に対処して、職場が被用者にとって働きやすい環境を保つよう配慮する注意義務もある」と判示されているものの、ここでいう「被用者の人格的尊厳を侵しその労務提供に重大な支障を来す事由」というのは、上司のセクシュアルハラスメントや嫌がらせ行為が念頭に置かれての議論であり、「働きやすい環境」というのも、そういった悪質行為がないといった程度の意味で論じられている。
「会社の政治的中立性」や「職場の思想的(保守的)な雰囲気」が「環境」として争点となっている本件とは、相当事案の種類が異なる。
また、この福岡事件は、上司のセクハラという「原告女性にとって良くない環境」を会社が調整しなかったという3者構造の紛争であり、会社が第三者的立場で職場環境配慮義務を負うとしたものである。しかし本件は、原告の主張によれば、原告が被害者、被告らが一体の加害者という2者間の利害の衝突であり、福岡事件と紛争構造が全く相違している。その点でも、福岡事件判決がいう職場環境配慮義務という概念を、本件に適用しようということには無理が感じられる。
加えて、この福岡事件では、配慮義務が「被用者の労務提供に重大な支障を来す事由」の発生防止の責任という形で、義務の発生について「重大な支障」という場面限定(要件)が付されていることも重要である。
結局原告は、福岡事件判決の「職場」、「働きやすい環境を保つ」、「配慮する注意義務」といった単語の表面的な意味だけを取り出して、本件の先例であるかのような我田引水の議論をしているに過ぎない。
もう1件の日本土建事件は、原告が特定の作業所に配属後、上司から極めて不当な肉体的精神的苦痛を与えられ続けていたのに、会社が原告に対する上司の嫌がらせを解消するベき措置をとらなかったことをもって、「被告の社員が養成社員に対して被告の下請会社に対する優越的立場を利用して養成社員に対する職場内の人権侵害が生じないように配慮する義務(パワーハラスメント防止義務)としての安全配慮義務に違反」していたと認定した事案である。ここでは、「職場環境」という言葉も使われていない。また、「職場内の人権侵害が生じないように配慮する義務」というのも、上司のパワーハラスメントや嫌がらせ行為を「人権侵害」として設定した議論であり、かつ、3者関係の紛争でもあり、前記事件同様、本件と類似性はほとんどない。
(5)ヌードポスターの職場掲示などの性的表現と、政治的言論の違い
原告は、職場環境配慮義務違反の典型例として、社内でヌードポスターを貼る行為を挙げ、本件と環境型ハラスメントという点で共通である旨主張する(原告第2準備書面7頁、原告第14準備書面6頁以下等)。しかし、ヌードポスターの職場掲示などの性的表現と、政治的言論が、同列で議論されることにも疑問が大きい。
性的な言動が職場に蔓延することの抑止という点で職場環境配慮の必要性が語られることは十分理解できるが、それは、そもそも性的な言動は純粋に私的なものであって職場に持ち込むべきでないことが倫理的に明らかということが背景にある。すなわち、環境配慮懈怠により被る労働者の「不快感」は、「性」という「私的・非公的」なテーマを、職場という一種「公的」な空間で露わにすることが職場環境にはマイナスであることについて異論がないことが、大前提になっているのである。
しかし、本件で問題とされているような道徳感とも結びついた社会的、政治的な発言については、公的な側面があり、また、後述4のように企業理念や事業活動の目的とも結びつく場合があるために、職場に持ち込むことが一切禁じられるべき「負の要素」とは言い難いという、性的表現との大きな性質の違いがある。
繰り返すが、政治的文脈における言論の自由は最大限尊重されるべきであり、違法となりうるのは、集団に対する表現であっても実際上は目の前の特定人に対して向けられたものであって、きわめて煽動的、攻撃的、侮辱的な用語をもってなされ、その属性を持つ人々が現実の迫害の危険を感じるもので、政治的意思決定プロセスにおける保護に値しない言論の場合に限られると考えられる。本件の配布資料は、そのような種類の表現では全くない。
4 被告今井及び被告会社の企業理念の独自性と資料配布の関係-職場環境に関連して-
(1)創業者の思想と不可分な企業理念や従業員教育
職場環境への配慮が強調されすぎると民間会社の経営や事業展開への重い足枷になるということは先述したが、それは要するに、創業者の思想に由来する各企業の独自の企業理念やそれを背景とした従業員教育のあり方が、ニュートラルな職場環境との間で、深刻な葛藤を生じうるからである。
本件はそういう問題が顕在化している事案でもあることは被告今井第5準備書面でも記したが、以下、より具体的に、被告今井の起業の思想と被告会社の企業理念が、従業員教育としての本件資料配布にどう関連するのかを述べる。
(2)被告今井の起業の思想
被告今井の基本的な思いは、その第2準備書面1頁以下でも詳述したが、書証のうちでそれを具体的に確認いただくのに最も適当なのは、従業員向け冊子「家族から始まる物語」(丙11)である。
その冊子の内容の要点は、次のようなものである。
・戦後の日本の混乱と、被告今井が育った家の困窮。
・父母、兄、そして被告今井自身の家族への献身。
・勤め先での営業の努力と妻の支え。
・勤め人時代の悔しさから生まれた「品質責任」というフジ住宅創業の理念。
・その背景にあるのは、「家とは家族をはぐくむ揺りかごなのだと思います。」、「家族をはぐくむ家を届けたくて、私は会社をつくりました。」という思い。
・「まず社員であるあなたから幸せになってください。」
・「富士山みたいに愛される会社にしたい。」
・「もしも、お客様があなたの家族だとしたら。もしも、同僚があなたの家族だとしたら。自分さえよければいいなんて薄っぺらな発想は生まれない。そこにあるのは、心から相手を思いやる気持ちではないでしょうか。」
・「人はみんな、ひとつ屋根の下で暮らす家族なのだ。どうかそう思いながら、一緒に働きませんか。それをフジ住宅の働くルールにしませんか。」
上記内容に、被告今井の起業の思想の本質が端的に現れている。
家族愛、従業員や顧客も含めた同朋への献身、地域や共同体との一体感、日本という国への愛着等の強い心情を揺るぎない基盤として、家族を育む揺りかごとしての「家」(民間住宅)を高品質で届けるという決意がそれである。
かかる被告今井の起業の思想は、被告会社の企業理念そのものであり、それらの背景である上記のような心情は、「保守の思想」と非常に通じる内容である。
「営々と繋がれてきた市井の人々の暮らしに根ざし、そこでの家族愛を核にした他者への思いやりが、日頃接する人々(会社の仲間や顧客など)、地域、そして国にも同心円的に広がっていくことで、共同体意識が広く形成されるとともに倫理道徳が社会で共有され、その結果、個々人にも国にも進むべき道が見出せる」というような思考は、保守思想の典型的なものなのである。
かかる被告今井の考え方からすると、当然、保守的な論調の公刊物上の各種言論に親和性が生じる。それが、被告今井によるそういった内容の資料配布への動機となっている。
留意いただきたいのは、その資料配布も、個人的な主義信条の押し付けというではなく、「顧客を家族同様に考え、品質保障などの顧客サービスを徹底する」という企業理念に密接関連しているという点である。
また、資料配布や福利厚生施策を通じて従業員に働きかける被告会社の諸々の行為も、従業員を家族や同朋として認識し一体感を持ち、ともにこの国で生きていこうという被告今井の思いに由来している。
そのような在り方は、「価値観の伝達」という意味で見方によっては「お節介」と評されるかもしれないが、そういった特色や独自性は、「(従業員との関係における)家族的経営」や「徹底的な顧客本位」という、フジ住宅という企業の特質、強みと不可分一体なのである。
(3)被告会社が取り扱う商品と企業理念の関係
補足的に述べると、被告会社の上記のような企業理念や社風は、被告今井の心情や理想に由来するというだけでなく、被告会社が企業として扱う商品の性質とも必然的な関連性がある。
被告会社は、分かり易く言うと、岸和田というローカルな町で創業した「地場の住宅メーカー」であり、民間住宅すなわち「地域の人々の家」がその基本的な商品である。
その商品の特質としては、被告今井の表現によれば「家族をはぐくむ揺りかご」であり、長いスパンで何代もの家族を支える長期的な資産であり、地域で口コミを中心に支持を広げることが事業展開において重要ということが指摘できる。
転売利益を追求する証券会社や、都市部中心の不動産会社、大規模な土木建築案件を主とするゼネコンなどと比較したときに、取り扱う商品や、関わる顧客層(営業基盤)、視野に入れている時間感覚、アピールポイントなどが全く異なるのである。
被告会社の取り扱う商品のそのような特質からは、短期的な利益重視の姿勢とか、中央や国際重視の巨大ビジネス志向などとは対極の、伝統的、地域密着的な価値観や身近な人々を大事にする姿勢のようなものが重視される傾向が生まれやすい。少なくとも被告今井の中では、そういう自社の事業内容と先述の企業理念は固く結びついている。
そして、そういった被告らの伝統的で土着的な価値観というのは、保守思想と通底するものである。
その意味でも、被告今井がなしている資料配布は、単に個人的な思想信条の喧伝ではなく、企業理念と結びついた従業員教育として評価されねばならない。
(4)創業者や企業トップが従業員を全人格的に育成しようとすることの必然性
パナソニックの創業者の松下幸之助は「松下電器は人をつくるところです。併せて電気器具も作っております」という名言を残している。
そのように、日本の実業界には、経営における従業員育成にあたり、「人をつくる」つまり全人格的に立派な人を育て上げようとするとか、「心の持ちようや生き方を指南する」ということが、重要視される風土がある。
被告今井第5準備書面3頁以下でも述べたが、「人格的な面も含めて、人を育てる」という企業での営為においては、内容や程度はさまざまであろうが、一定の思想信条や価値観も含めて伝達するという要素も排することはできない。
本件の配布資料は、一定の思想や政治的見解を内容とするものであるが、企業理念を背景とした従業員の人格面の教育という目的からは、それも許容されると考えられる。
(5)従業員の多くから被告らの企業理念や従業員教育が支持されていること
被告らの示す企業理念や行っている従業員教育は、被告会社内で従業員の多くから支持され、それが従業員の意欲や活力、自社への誇り、会社メンバーの一体感、社風の確立とその対外アピールなどの各方面で、実際に大きな成果を生んでいる。
それを示す一例として、被告会社が全従業員に毎月配布している経営理念感想文から、従業員の「会社からの配布物への感謝」が示されたものを抜粋したものを、証拠として提出する。本件訴訟開始以前の平成26年2月度から平成27年8月度までの19か月分(乙17)と、本件訴訟開始以降の平成27年9月度から同年12月度までの4か月分(乙18)である。
それらを一読すると、被告らの打ち出すメッセージが従業員にも共有され、個々人にとっても被告会社の事業にとっても各側面で好影響をもたらしていることが分かる。そこにも見られる被告今井の経営手法が、現在被告会社が企業として成功を収めている重要な一つの理由なのである。
5 原告の主張する被侵害利益への疑念
被告今井は、前記3(1)において、被告会社の職場環境配慮義務違反という形で原告が訴えている被害の実体は、感情的反感や政治思想的反発であると指摘した。
かかる被害の内実は、原告の主張する「差別的な言動にさらされずに就労する権利、人格的自律権、職場において自由な人間関係を形成する権利」という被侵害利益とは異なるものである。つまり、原告に対しては、「差別的な言動にさらされずに就労する権利、人格的自律権、職場において自由な人間関係を形成する権利」の侵害はない。
具体的に述べると、一般論として、1つめの「差別的な言動にさらされずに就労する権利」というものは「権利」という位置づけや呼び方が妥当なものかはさておいても、そのような法的保護に値する切実な利益が憲法13条の幸福追求権を根拠として認められうることは、被告今井も争うところではない。しかし、前記2で述べたように、被告らが社内配布した資料はヘイトスピーチでも差別助長文書でもなく、法的に許容される政治的意見論評ばかりであり、かつ、原告個人に向けた言論でもなく(但し、「原告に対する報復的非難・社内疎外を内容とする資料の配付」という行為類型に、実名は記されていないものの原告個人を念頭に置いたものが含まれるが、それについては後記6で述べる)、原告が就労の場面において「差別的な言動にさらされた」とは評価できない。
2つ目の「人格的自律権」の侵害という点については、原告主張は、配布文書を閲覧したり、それに文書作成で応答したりすることが、「人格的自律を害する」というものであるが(原告第11準備書面7頁以下)、被告今井としては理解できない。人格的自律権というのは、言い換えると自己決定権であるが、配布文書の記載という他人の表現に触れただけで、仮にその者が不快感を感じたとしても、何ら自己決定が侵されたわけではない。もし、無理矢理に特定の思想内容の文書の作成と発表を強制されたら、自己決定権の侵害が生じるということは考えられるが、原告からはそのようなエピソードは主張されていない。むしろ逆に、原告は自己決定を貫き、例えば、1年目の教科書採択の際は、1か所目のアンケート会場には他の従業員に同行したがアンケートは書かず、さらに2か所目の会場には同行せず離脱している(被告会社準備書面3・11頁以下)。また、「部門長会議資料」については、原告はその所属部署の長であるEに申し出をして配布対象から外してもらっている(被告会社答弁書3頁、被告会社第1準備書面別紙、被告今井第2準備書面7頁、被告会社準備書面3・10頁等)。それらの事実は原告も争っていない。
3つ目の「職場において自由な人間関係を形成する権利」というものも、一般論として、「権利」という位置づけや呼び方が妥当かはともかく、幸福追求権の一環としてその種の法的保護に値する利益があることは被告今井も認める。しかし、本件では、原告に「職場において自由な人間関係の形成が阻害された」という具体的事実は見当たらない。
結局のところ、原告が人格権の侵害という中で主張する3種の被侵害利益は、原告の主観における感情的な不快感、政治思想的な反発の域を超えていないといわざるをえない。
6 「原告に対する報復的非難・社内疎外を内容とする資料の配付」との主張について
原告は、訴訟提起後の資料配布について、「原告に対する報復的非難・社内疎外を内容とする」ものであり、原告の「人格的自律権」と「職場において自由な人間関係を形成する権利」を侵害するものであると主張する。
この点、「原告に対する報復的非難・社内疎外を内容とする」行為であり違法であるとの趣旨に対しては、被告今井第5準備書面7頁以下と被告会社第5準備書面1頁以下でも述べたとおり、本件は被告らにも十分に言い分もある事案であり、原告側の被告らに対する激しいネガティブキャンペーンにより被告会社のイメージやその従業員の心情が傷つけられている実情にも照らすと、社内にも被告らの言い分を伝達すべき正当性と必要性も認められることを改めて強調したい(なお、訴訟に関する会社の姿勢や従業員らの会社支持の意見を、被告会社が従業員らに伝えようとすれば、そこに原告も含まれることは避けられない。全社員配布の資料について、原告だけ配布対象から外せば、それはそれで差別的取扱いや疎外として非難を受けるように思われる)。
また、原告の行為を対象とした意見論評であるとしても、実名や所属部署などの個人を特定する情報が記されていないとか、過度に侮辱的ないしは人格攻撃的な書きぶりがされていないなどの表現態様にも鑑みれば、十分に法的に許容されうる内容と考えられる。よって、被告今井としては、引き続き強く争う。
繰り返しとなるが、「世間での、提訴を支持し会社を批判してくれる報道や支援運動については、盛大にせよ。しかし、提訴に反発する声や会社を擁護する意見については、社内で従業員らに示したり自分に聞かせたりもするな。それは法的に許されない」というのは、あまりに一方的な主張ではなかろうか。
原告の主張する被侵害利益のうち「人格的自律権」という点は、前記5でも述べたとおり自己決定が害されたという事実が認められないため、その主張は失当である。
「職場において自由な人間関係を形成する権利」が侵害されたとの点については、原告に「職場において自由な人間関係の形成が阻害された」という具体的事実がないことは前記5で述べたところと同様である。
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