試練の山の向こうに

フジ住宅株式会社
社長 今井光郎

あのことがなければ敢えて苦労せずとも平凡に生きていけたかもしれない。それまでだって、可もなく不可もない人生だが満足していたのだ。あの事・・・それは責任感の強いことが唯一の取り柄であった、ごくごく普通の男であった私の前に立ちはだかる大きな山があった。しかし、この山は、後に私の人生観を大きく変えるとともに『人事を尽くして天命を待つ』という信条を与えてくれたのである。

俺がやらねば・・・

昭和四十六年、結婚して間もない二十五の時であった。ある事情で不動産会社に入社して二週間後、実家の長兄が急性結核で入院してしまった。健康保険制度も今ほど確立されていなかった為、入院費、食事代など、かなりの費用が必要になった。実家とて、父親が私の十八の時に亡くなった事もあり、貧しい生活だった。この時、私の心の中に「俺が何とかしなければ・・・」の気持ちが沸沸と湧いてきた。だが、入社したばかりの僅かな給料では兄の入院費もままならない。

当時、私は営業であったが、会社の給与体系は入社三ヶ月間は固定給、四ヶ月を過ぎるとすべて歩合給になる仕組みであった。歩合給になれば個人の営業成績(売り上げ)によって給料が決まってくる。成績を上げれば収入も増えるわけだ。だが、これとて営業の第一線に立たなければどうすることもできない。第一線に立つには、通常、入社後三ヶ月間の研修が必要であった。私には三ヶ月も待つ余裕はなかった。

もともと性格的には内気であり、営業などは自分に向いてないと思っていたのだが、この時ばかりは必死であった。兄のため、家族のために、今、自分がやらねばの気持ちが私を支えていた。責任感は、時に勇気を与えてくれる。私は営業会議の席で思い切って手を挙げ、ある事情でどうしてもお金がいる事を強く訴え、第一線に立つ許可を得た。とにかくお金が必要だった。

翌日より、先輩に混じっての営業が始まった。早朝から夜遅くまで、又、休みもとらず死に物狂いで働いた。この時は、苦労を苦労と感じる暇さえなかった。むしろ、責任感が生き甲斐をつくってくれた気がしていた。事実充実した毎日であった。妻もずいぶんと力になってくれた。後に、妻が嫁入りの時、持ってきた着物を質屋に入れ、金に換えていたことを知った。苦労は私一人がしていたのではなかった。今もって妻には感謝している。

私は人が定時に帰るなら、自分は一日で二日分働こうと考えた。家が会社の近くであったため晩飯は家に戻って食べ、また営業に出る。この晩飯も、どんぶり飯にインスタントラーメンの毎日が続いた。こんな生活が半年も続いたろうか。気がつくと、あの内気で、営業などできないと思っていた私がトップセールスマンになっていた。

もしも兄の病気がなかったなら、私はただ平凡な生活の中に身を置き、それでよしとするような人生を送っていたかもしれない。兄の病気は、天が与えてくれた大きな試練の山であり、又、大きなチャンスであったと思う。私は、これに全力で立ち向かっていった。その結果、トップセールスマンになることができ、更に「何事もやればできる」という自信と根性が身につき、自分の成長を感じることができたのだった。

その後、フジ住宅創業以降も試練の山はいくつもあった。しかし、「あの当時に比べたら山はまだまだ小さい」と考え、果敢にチャレンジしてこれを乗り越えてきた。

大切なのは、自分を信頼できる自分であること

兄のため、家族のためにと頑張ったあの当時、あれから二十年近くになった。そして現在、私の経営理念は『社員のため、お客様のため、取引先のため、地域社会のため、そして日本国のために頑張る』更に、『人事を尽くして天命を待つ』を信条としている。この気持ちは、いつまでも大切にしていきたい。

経験から言わせて戴くなら、逆境に突き当った時には一人の人間として、いかに対処していくかを真剣に考え、決して落ち込むことなく、逃げることなく、プラス指向で全力を尽くすことだと思う。迎えた苦難が大きければ大きい程、それを乗り越えた時には大きな自信がつくものだ。更に、困難に立ち向かうためには、まず自分で自分を尊敬でき、信頼できる人間であることが大切である。自分が信頼できないようでは、人に信頼されるわけもないし、ましてや成功などあり得ない。

又、日頃より尊敬でき、心の支えとなる人生の師を持つことも大切である。例えば、師が歴史上の人物なら、書物に書かれた師の言葉を繰り返し読むことによって、その人生観を理解し、実践していくことだ。師を持つこと───それは逆境においても、その後の人生においても必ず大きな財産となって返ってくると信じる。